お知らせ・活動予定


マジック関連の出演、レクチャー、講演、プロデュース、コンサルティング等お仕事募集しています。

2014年5月20日火曜日

「良いコンテンツ」について。

 年始から4月下旬くらいまで、公私ともに忙しく、バタバタとした日常を送っていたとは打って変わり、なんだかここ数週間は非常に時間的余裕のある生活をしていました。

  そのお陰で読書や舞台鑑賞、またとりとめのない思考に頭を働かせる事に時間が取れて、休まるヒマもないくらいにやる事に追われたり、何もする事がない余裕を持ったり、という事は交互にメリハリよくあった方が、日々の生活の中でバランスよくインプットとアウトプットを両立するよりも、むしろ効果的なのかもしれない、などと思っている次第です。

  そうした中で思った事なのですが、本当にもうなんていうか、最近世の中のコンテンツのレベルがすごく高いような気がする、という事です。たまたまの巡り合わせとか、自身の感受性云々の話なのかもしれませんが、いやしかし、ここは「コンテンツのレベルは昔に比べて高い、そしてそれは今後とも継続する、つまりはコンテンツの質はどんどん上がっていく」という前提で話をしようかと思います。


  さて、なんでコンテンツの質なんてものに僕らはこだわるのでしょうか。それは非常に皮肉な事に、コンテンツを大好きな僕たちは「コンテンツの良し悪しがわかってしまうから」に他なりません。別にコンテンツに本当の意味での「善し悪し」があるとは僕は思いません。そこには自分なりの物差しがあるだけで、それはつまりは「好き嫌い」という話なのだと思います。ですがその好き嫌いは多分一人一人が違う、千差万別的なものではなくて、小規模の集団単位である程度共通する「好き嫌い」があるのだろうと思います。ある特定の集団内で共感できる「好き嫌い」を、「良い悪い」に変換し共通言語化し一つの文化体系を作り上げる事が、そのものの「良い悪いがわかる」という事の実態なのだろう、と思います。

 「コンテンツの良し悪しがわかる人達」が作り上げた「良いコンテンツ」に合致する好みの要素とはどういったものでしょうか。多分それは、

 「労力がかかっている」 → 作り込まれている
「見た事の無いものである」→ 新しい
「ある分野の知識が無いと理解出来ない部分がある」 → 難解
「時代背景を何かしら反映している」 → 現代的
 「微妙になんだかよくわからない」 → 深い
「体感するとテンションが上がる」 → 面白い
 「自分にとって都合が良い」 → 共感

などなど、があげられると思います。

そしてこの好き嫌いの割合が近い人同士がグループを作り、他とは相容れない文化を作り上げていくのです。 それが多分現在の「消費者」というものではないか、という事です。 


 こうした偏った消費者グループが大量に存在し、大小の差はあれ発言力を持っている。作り手は真面目にその声に耳を傾け、出来るだけ多くの集団の好みに合致するように自分のコンテンツに様々な要素を入れこんでいく。


  「コンテンツの質が上がる」という事をある側面から大雑把に見ると、「作り手の負担が大きくなる」という事ではないか、と思います。作り手は多くの事を勉強し、たくさんの人数をかけ、予算を使い、呆れるほどに労力をかける。この流れは多分しばらく止まりません。何せ隣の連中はみんなそうやってものすごく良い物を作っている。自分達が手を抜いたら誰も自分達に見向きもしなくなる。その結果「良い物を作りたい」という意識は、過当競争、ブラック化の一途を辿るわけです。そしてコンテンツ作りなどというものに携わり「良い物を作りたい!」などと思ってしまっているピュアな僕たちは、損得計算なんて出来ませんので、実に残念な事に様々な要素を過剰投資してしまい、良いコンテンツを作りあげてしまう。そして結果的にコンテンツ作りはどんどん「投資回収不可能」な、報われない仕事になってしまうのです。



 これからも多分コンテンツの質は上がり続けるだろうし、多分その渦の中に自分も混ざってしまうのだろうと思います。消費者としてどんどん目が肥えてこだわりが強くわがままになり、生産者としてどんどん過剰投資を行い報われなさを助長し続ける。これに対する落とし所というか、ある種の着地点なるものを今のうちから考えておかないといけないのかもしれないぁ、などと思っている次第。